世良田東照宮 (尾島)
ここに、世良田東照宮があります。
荘園制度時代には新田荘が存在していた地です。
徳川家康公が松平であったころ徳川を名乗るきっかけが新田荘です。三代将軍家光公の時代に造営されたそうです。
門をくぐると、正面に東照宮拝殿が見えます。
縁結びの門とあります。
これにはおどろきました。
徳川東照宮は「縁切寺満徳寺」で深いなぁーと思いきやこちらは「縁結び」とありましたから、これは松平氏から徳川氏を興した家康公の側近の天海の後世へ向けた画策なのか、と深読みしてしまいます。
境内の案内図
これ!門番がいたということなのですね。
少し遊んでみました。
この日は車載温度計で気温40度とでました。
江戸時代の被り物では暑そーなので、ストローハットで😆📷✨
天海より掟なるものありました。
後世へつなぐ施策には必要なのですね。
東照宮拝殿の左手には開運稲荷社がありました。
立派な稲荷神社です。
明治のころの周辺の地図
立派な構えですね。
開運稲荷社について、
明治になって付近の世良田五社稲荷の1社と合祀したようです。
社務所を覗いて見ることにします。
ゴールドと黄色の勾玉の見つけました。
こちらをいつも身につけてるスマートフォンに加えます。
無料休憩所がありまして、外は暑いのでエアコンが入って涼しそーだったので入ってみました。
管理人のおじさんに話しかけたらお冷くださいました。
この3文字に目が止まりました。
「ねぷた」は青森県弘前市や黒石市にある夏祭りです。扇形の山車で街中を練り歩きます。「ラッセーラー」の掛け声が有名ですね。
「ねぶた」は「ねぷた」と違い立体化した山車です。
尾島はその「ねぷた」のほうと関わりがあるようです。
江戸時代より繋がりがあるようです。
時代は江戸時代初期の津軽藩初代藩主津軽為信。豊臣秀吉より津軽三郡4万5千石の所領を安堵されたそうです。
津軽為信は豊臣秀吉が没して関ヶ原の合戦では東軍家康方に味方して功として、上野国いまの群馬県付近の6箇所の村で2千石をもらったようです。このとき石高では尾島に付近がもっとも多かったようです。これで津軽藩の飛び地が生まれたのでした。
弘前と尾島は縁ゆかりがあるのでした。
これにはわたしもおどろきました。
津軽藩といえは、いまの弘前市と黒石市にそれぞれ城下がありました。私は黒石の生まれです。
太田市は少年期を過ごしました。尾島のすぐとなりの町の高林です。弘前と黒石みたいな感じです。
ご縁あるキーワード残しておきます。
尾島と弘前
高林と黒石
上州から徳川姓ができて徳川東照宮、世良田東照宮と家康が没して丸山東照宮(静岡浅間神社)と久能山東照宮ができます。
なんだかなぁ
何やら縁で繋がってるのですねー不思議です。
帰る時、圏央道あきる野で事故で通行止めでしたが、ゆっくりと帰りながらの旅は、通行止めも解除になり、行きも帰りも渋滞知らずで帰宅できました。
すんなり言って帰るのがいちばんよい旅だったりします。
弘前ねぷた(青森県弘前市)、黒石ねぷた(青森県黒石市)、尾島ねぷた(群馬県太田市)は津軽藩の領地だった。徳川姓発祥の地太田市。津軽藩の領地かあった太田市。駿府(静岡市)と尾島(太田市)は縁あるのね。