江戸時代の事任八幡宮の講話を聞きました。
事任八幡宮(ことのままはちまんぐう)
静岡方面より掛川バイパスことのままトンネルを過ぎて、掛川道の駅を経由してスグにあります。
平成30年2月4日日曜日
第6回おはなしの会
崇敬奉賛会の主催で行われました。
事任八幡宮には古文書が数千点あるそうです。資料を紐解いて少しずつわかって来たことをお話して下さる機会となりました。
講師は、静岡県立中央図書館の館長をされて、常葉大学教育学部教授を歴任された天野忍先生です。神主の免状も所持されてるそうです。
延喜式神名帳になお残す事任八幡宮について、平安時代から続いている事任八幡宮でありますが、今回は江戸時代の頃の事任八幡宮について古文書からわかったことをお話していただけました。
事任八幡宮は江戸時代
文禄二年(1593年)と慶長九年(1604年)に検知されていたそうです。
文禄二年(1593年)は豊臣秀吉が朝鮮出兵した翌年の事ですね。この頃に秀吉の名で検知された事が記録として残っていたようです。
時の将軍家康公から慶長八年(1603年)に江戸幕府開府した年で社領を寄附されていたそうです。石高は100石。(一石が180リットル)朱印地として安堵されていたそうです。
その翌年に掛川の日坂の有力な地元の人が検知をしたという記録資料が残っていて今回古文書を読み解くことができて解明されたそうです。
古文書は紙だけでなく、石燈に彫られている文字などからもわかることができ、古い紙の端に書かれた文字からも紐解くひとつのきっかけとなるそうです。
古い江戸時代から続く民家や商家から札や瓦や板の切れ端に書かれてる事もあるそうです。
古文書の解明で大変なのが「ひらがな」だそうです。「あ」という字にしても「阿」を崩したものや、「安」を崩したり、さまざまな書き方をする方がいたそうです。特に女性が書かれた古文書は大変なんだそうです。クセ文字っていつの世もあるですね。
石高安堵されてるからなのか、神社の神主は将軍へ江戸に参府してたそうです。行列を成して行かねばならぬ為、遠方より江戸へ参府する時、1人2人で江戸近くまで向かい、江戸に入る直前に、行列を組むため人を雇い行列を成して江戸に入ったのだとか。
神主の手土産は必要で、手ぶらで将軍にお会いする訳には行かず、扇子を束ねたものを献上したそうです。
将軍に直にお目通りできる。これは神社の格を示したことですが、七、八年に1度と将軍が変わったときに参府だそーです。苦労がおありだったのですね。
八幡宮神主の跡目も途絶える時もあったそうで、血縁ある家とも大切なことのようです。
小国家、中村家、秋鹿家、武田家、
事業継承というのは苦労があるものですね。続けるって大変ね。